おかげさまで、後厄を元気に迎えた、42歳のおじさんKANです!
近年稀に見る早起き生活が続き、週に3日は運動し、KOMBUCHAやCold Pressed Juiceをほぼ毎日のみ、絶好調です。
本当に日々、感謝。
実は42歳というのは、自分にとって、とても感慨深い年齢です。
自分の実父が、亡くなった歳。今の状況を鑑みると、改めて、早かったなと思います。
父は三井物産でバリバリ働き、40歳で大泉工場に専務取締役としてもどり、確か2年で、残念ながら病に伏すこととなりました。
自分は当時14歳。そして結構辛い小・中学生時代を送っていたため、正直、当時の記憶があまりありません。「寛太郎には記憶という概念がない」と友人に言われることがありますが、本当に、記憶というのは不思議なもので、辛かったことって、忘れてしまうんですね。
自分の薄い記憶の中で、父が存命の時に話していたことの一つに、閉鎖する工場跡地を、新しくどう活用していくかということを、家で相談されたことがあります。
「寛太郎、フットサルって知っているか?」
今から28年前、まだJリーグも始まるかどうかくらいのタイミングで、父から聞かれたその質問に、正直、はてなマークが頭をよぎりました。
2023年現在、フットサルの競技者人口は減少傾向と言われていますが、フットサルがなんなのか、知らない人はほとんどいないと思います。しかし1990年代は、市民権を得ているとは言い切れない、新しいスポーツの一つでした。
父が、フットサルが日本でブームになるかどうか見据えていたか、知る由もありませんが、事実、2002年の日韓ワールドカップをきっかけに、日本におけるフットサル人口は、急増。他でもない自分も、チームを作って毎週、興じていました。
大泉工場跡地のフットサル場計画は、父が亡くなったことが起因してか、幻となったわけですが、父に先見の明はあったのかなと、思います。
もちろん、さまざまな要因で幻になった計画ではありますが、当時を考えると、新しいことを始めることに対して、各方面からネガティブな意見があったことは想像に難くありません。
新しいことを始めるって、本当に難しいです。
兎角自分も、2009年にポップコーン事業を始める!だったり、2012年に大泉工場の全商材をオーガニック化する!だったり、2016年にKOMBUCHAを始める!など、新しいことを立ち上げる際、ほぼ同意など得られず、スタートしました(今も色々と新しいこと、考えています笑)。それによって、離れていってしまった仲間も、少なくはありません。
新しいことを始める苦しさは、正直あります。
でも、産みの苦しみは、未来を見据えた上で必要なことだと本能に刷り込まれており、やめられません。一種の麻薬みたいなものです。
しかしそれよりも辛いことがあります。それは、やってきたことをやめること。この決断は、本当にしんどい。
2023年、2009年から続けてきたポップコーン関連事業を一旦、休止しました。それによって、数名のスタッフにも会社を去っていただくことになったのですが、辛かった。
しかし今の「株式会社大泉工場」があるのは、過去の「大泉工場」をやめる決断をしてくれた先代社長がいたから。
川口市を代表する鋳物工場であった大泉工場が、鋳物事業を辞めるという決断は、自分が14年間やってきたポップコーン事業を辞めるという決断の、何百倍もきつい決断だったと思います。
そのおかげで、次の世代に我々にバトンを渡してくれた先代には、絶対足を向けて寝ることはできません。
このバトンを次の世代に繋ぐために、また新しいことを始める。これは、自分や今、大泉工場にいてくれているスタッフに課せられた使命と言っても、過言ではないでしょう。
先代への感謝を忘れず、未来につながる新しい挑戦を、続けていきましょう。
それが、日本、そして地球の明るい未来につながることを信じて。
最後に、「新しいこと」ばかりに目を向けているわけではなく、始めた新しいことが「カルチャー」として根付き、人々の笑顔につながり続けることも、もちろん意識して事業をしていること、お伝えさせていただきます。