学びとは何か、トラウマとは実在するのか

小腹が減りすぎて、思わず手を出してしまったスタバのレジ横にあった「ハリッサ味ひよこ豆チップス(Plant Based)が、思いの外美味しすぎて、ジャンク魂に火がつきそうで困った、KANです。

先日、小学校時代、六年間お世話になった担任が、完全定年退職をされたということで開催された、慰労の会に参加しました。

タイトルが、「先生による最後の授業」という、なかなかエモいもの。

先生が最後に伝えてくださったことが、30年の時を経て、自分に刺さっていたものを完全に取り除いてくれたので、それを今回はお伝えしたいと思います。

<日本でも珍しい、小学校の「繋がる」システム>

自分が通っていた小学校は、6年間クラス替えがなく、基本的にその間、担任の先生も変わらないという、一般的にはなかなか珍しいシステムの学校。

それが故に、先生が受け持つクラスも、生涯8クラス(1クラスが40人前後なので、教えを受けた生徒は大体320人前後)とそこまで多くない反面、先生や同窓生との結びつきは、とても強い。なんなら親御さんも、他の家族の子どもたちを覚えてくれている(逆も然り。誰々のお母さんは美人だったなんて話は、結構あったりなかったり)。言ってしまうと、うまく立ち回れればハッピーな学生生活を送れますが、つまずくと、これがなかなか厳しい。

自分の先生は、終盤には校長もされていたので、実際の生徒数は定かではありませんが、この320人という数が多いのか少ないのかは、計り知れない。

余談ですが、体育や音楽など、担任を受け持たない専門職の先生もいらっしゃいます。数年前、バッタリ駅でお会いした際に、しっかりと自分のことを認識してくれていたことには、心底驚かされました。

そして何よりこのシステムの面白いところは、6年上の先輩(後輩)が、ものすごく近い。とにかく近い。同じ学校で担任も同じだと、もう、同志と言っていいくらい、近い。

以前、バーで一人飲んでいる際に、後から入店された、なかなかユニークなオーラを纏うおじさんを紹介され、たまたま母校が一緒だという話から、共通の知人が何人も話にあがり、結果、その方は同じ担任の先生に教えを受けていたという奇跡が起き、今でも関係が続いています(なんなら香川県の先輩のお宅までお邪魔した)。

初めて会ったとは思えない関係性が築かれる、特殊な学校です。

慰労の会の日も、もちろん再会。人のご縁というのは、面白いものだと改めて感じた、いい経験の一つです(その方のやっている事業が、またぶっ飛んでいて愉快。どこかでコラムにも書くことになるだろう)。

自分は、とあることがきっかけで、大勢が集まる同窓パーティ的なものがあまり得意ではなく、不参加が多かったのですが、今回は退職という大きな節目と、「最後の授業」というキャッチーなタイトルに心が惹かれ、参加させていただきました。

参加してみたら参加してみたで、本当に卒業以来、全く話しをしていない同窓生が多数いて、久々の交流は、思いの外楽しい時間でした。

当時、酸いも甘いも共にした仲間というのは、歳を重ねることで、関係が昇華していくものだなと、嬉しく感じました。

さらに、担任の先生はもちろんのこと、当時お世話になった先生方(直接指導はされていない)、さらに担任の先生の奥様までもが「おおー、大泉寛太郎」と名前をフルネームで覚えていてくださっていることが、震えるくらい、嬉しい気持ちにさせてくれました。

旧友たちとの歓談もそこそこに、今回のパーティのメインイベント「最後の授業」が始まりました。

<最後の授業で先生が伝えたかったこと>

先生が最後に選んだテーマは「なぜ、人は学ぶのか」。

先に自分の考えを。

人は成長するために、学び続けるのだというのが、自分の学びの理由です。

成長し、自分を含め、世の中を幸せにしていきたいと考え、学んでいます。

「地球を笑顔で満たす」ことを使命と感じている自分は、生涯、学び続けていくと思います。

ニュアンスは大きく違わないまでも、先生が伝えてくれたこと、教えは、若干違いがありました。

「授業」で先生がおっしゃっていた「学ぶ理由」は、下記の通り。

人は、生きていくために、金持ちになろうとする(財産を築く)。

そして地位を築こうとする(名誉を得る)。

しかし、これを目的にしてはいけない。

人生の「楽時の学問」をしてほしい。

自分では努力していないつもりでも、周りから見たらとても努力している。

努力していないけど続くことというのは、それ自体を楽しんでいることである。

つまり、楽しいから学んでいる人が、成長し続けると考えている。

「生涯の愉快を楽しむ」ということにつながる。

つまり、堅えずに、好きなことを突き詰めていくということに、通じている気がします。

金持ちになりたいから、名誉を得たいからということを目的にしても、学びは続かないということと、自分は解釈しました。

<学びのその先、活用>

熱弁を振るう、先生

そして、先生が敬愛する、母校の創設者である福沢諭吉の語る「学問」の要とは、「活用あるのみ」である。

知っている知っていないは関係ない。

それを活用できているかどうかが、学問の要である。

これには激しく同意です。

世の中で最も大切なのは、人と人との関わり合い。

福沢諭吉は、ソサエティ(社会性)を人間交際(じんかんこうさい)と訳しました。明治以前には、「社会」という言葉がなく、この言葉が使われたそうです。

知恵と慈悲、知恵だけあっても仕方ない、人のためになることを、人のことを想い、なさなければいけない。

思いやりを持って、人が喜んでくれることをやる。

人間とは、支え合いの間で生きている存在であるというところに、結局のところ行き着くわけです。

最後の先生からの教え、そしてメッセージは、「楽しんで働き、学んでください。人を想い、人のために。」というものでした。

先の学問の要「知っているだけでは意味はなく、それをいかに活用するか」

「xxxを知っている」

このxxxには、いろいろな言葉が入ります。モノ、コト、ヒト、、、。

知っているだけでも、それを活かさないと、誰も幸せにすることはできないと、自分も常々思っています。

学びの先に、活かし、活かされの関係を築き、愉快な世の中をさまざまな人たちと創り上げていきましょう。

先に生きていると書いて「先生」。

その先生が、人のために学ぶんだということを、最後に伝えてくれたことに、感謝しました。

<一つのトラウマが払拭された気がする>

ここまで、とてもいい「美談」を書いてきたわけですが、実は、自分は当時、この先生にみんなの前で言われた、とある一言が、本当に長いことトラウマとして胸に刺ささり、生きてきました(ここでは書けないくらいの・・・)。

しかし、改めて先生の「最後の授業」を真剣に聞き、自分で咀嚼することで、完全に払拭された気がします。

アドラー心理学でも、「トラウマは存在しない。過去の出来事そのものが人を決定づけるのではなく、それに対する解釈や今の選択が、未来を作る」と言われています。

トラウマが存在するかしないかまでは、正直分かりません。

ただ、結果として前に進む力が、強まったことは事実です。

先生のメッセージを胸に、前進あるのみ。

大泉工場が取り組んでいる事業は、本当に学びが必要となるものだなぁと日々、感じています。その学びを一つ一つ形にし、人のためになることに取り組んでいくことが、これからの未来を切り開いていくと信じています。

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