美味しい食べ物とは、何だろう。
僕たち人間の体は、食べたもの、飲んだものでできている。
それは紛れもない事実だ。
にもかかわらず、生まれたときから当たり前のように繰り返している「食べる」という行為を、僕たちは少し、おざなりにしすぎているのかもしれない。
世の中には、数え切れないほどの食べ物がある。
甘いもの。辛いもの。高級なもの。素朴なもの。手間をかけてつくられたもの。すぐに食べられるもの。
では、本質的に美味しい食事とは何なのだろう。
僕は、食べ物の味だけでは決まらないと思っている。
誰と、どこで、何を食べるか。
さらには、そこに至るまでにどんな時間を過ごし、どんな感情を共有したのか。
美味しさは、食べ物の中だけに存在するものではない。
その周囲にある空気や関係性、記憶までも含めて、つくられていくものなのだと思う。
2015年、西アフリカのベナンを訪れたとき、僕はそのことを強く感じた。
ポップコーンをきっかけに、僕にとって未知の土地へ飛び込んだ。
そこで、なぜか地元の人たちとサッカーをすることになった。
整備されたグラウンドではない。
それでも僕たちはボールを追いかけ、汗をかき、笑った。
名前も知らない。
言葉もほとんど通じない。
彼らが話すのは、主にフランス語。英語もカタコトの僕にとって、言葉によるコミュニケーションは、ほとんど成立していなかった。
それでも、サッカーは成立した。
ボールを蹴り、走り、パスを出し、失敗して笑う。
その時間を共有するだけで、僕たちの間には、言葉を超えた関係が生まれていた。
サッカーを終えたあと、彼らと一緒に食事をした。
店ではない。
雨を避けられる屋根もない。
食器も、僕たちが普段使っているようなものではない。
目の前に並んだのは、僕にとって見たことのない料理の数々だった。
彼らもまた、遠く離れた日本からやってきた僕が、どのような反応をするのか、興味深そうに見つめている。
郷に入っては郷に従え。
僕は、出された料理を口に運んだ。
決して食べ慣れた味ではなかった。
どのような材料を使い、どのようにつくられたものなのかも、よく分からない。
それでも、不思議なほど美味しかった。
サッカーで思い切り体を動かしたこと。
名前も知らなかった人たちと笑い合えたこと。
彼らが僕を受け入れ、同じ食事を囲んでくれたこと。
そのすべてが、目の前の料理の中に溶け込んでいるように感じられた。
気づけば僕は、出された食事をきれいに平らげていた。
あのとき、僕が味わったものは、料理だけではなかったのだと思う。
そこにあった時間や関係性、驚きや喜びまで、一緒に食べていた。
それから年月が経った今も、僕は毎日、何かを食べている。
ベナンの路上で食べたものよりも、設備の整った場所で、洗練された料理を食べる機会はたくさんある。
けれど、あのとき心と体を満たした「美味しさ」を超える体験は、それほど多くない。
味覚としての「美味しい」と、体験全体としての「オイシイ」は、もしかすると少し違うのかもしれない。
料理がおいしいことは、もちろん大切だ。
食材や製法、安全性に真摯に向き合うことも欠かせない。
しかし、それだけで人の記憶に残る食事が完成するわけではない。
誰と食べるのか。
どこで食べるのか。
その場所に、どんな空気が流れているのか。
つくる人と食べる人の間に、どんな関係が生まれているのか。
食の価値は、そこに人が介在することで大きくなる。
だから僕たち大泉工場も、単に美味しいものをつくるだけではなく、その前後にある体験まで大切にしたいと思っている。
KOMBUCHAを飲む時間。
カフェで誰かと語り合う時間。
緑の中で食事をし、少しだけ呼吸が深くなる瞬間。
つくり手の想いや、食材が育った背景を知ること。
そうした一つひとつが重なって、食べ物や飲み物は、記憶に残る「オイシイ」に変わっていく。
美味しい食べ物は、それだけでは成り立たない。
食の周りにある環境や時間、人と人との関係まで含めて、僕たちは「オイシイ」をつくっている。
僕はこれからも、その中身を深く考え続けたい。
そして、まだ言葉になっていない「オイシイ」の可能性を、一緒に追求してくれる仲間と出会いたいと思っている。
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