大泉工場では、毎週水曜日の朝、「芝川クリーンプロジェクト」と題して、会社の周辺のゴミ拾いを行っている。
あくまで有志の活動であり、参加は任意だ。だからというわけではないが、僕自身、すべての回に参加しているわけではない。
この活動において、実際に手を動かしてみると、気づかされることがある。
なぜ、こんなにもゴミは落ちているのか。
誰が、どんな気持ちでこれを捨てたのか。
自分たちは、どんな気持ちでそれを拾っているのか。
そして、この活動は何につながっているのか。
たった数十分の活動の中に、社会の縮図のようなものが見える。
実は、社会人になってからゴミ拾いという行為自体は、僕にとって珍しいものではなかった。
新卒で配属された宇都宮パルコでも、地域貢献の一環として、月に一度、周辺企業と一緒にゴミ拾いをする時間があった。
当時の僕は20代前半。元気バリバリの時代だ。
そして、ほとんどその活動に参加していなかった。
今振り返ると、正直、かなり恥ずかしい。
ただ、その時の自分は本気でこう思っていた。
「この活動に、どんな意味があるんだろう」と。
もっといってしまうと、この活動自体に、興味関心がなかった。
朝早く出社して、ゴミを拾う。
それが何につながるのか、まったく腹落ちしていなかった。
それでも、何度か参加した記憶はある。
そして、なぜかその日のことは、今でもぼんやり覚えている。
率先して活動を先導していた総務課の課長がいた。
その人はその日、とても優しかった。
「参加して偉い」とか、「ありがとう」とか、そういう直接的な言葉をかけられたわけではない。
でも、ほんの少しだけこの活動に関心を向けた僕を見て、どこか嬉しそうにしていた。
今思えば、あの表情が、この活動の本質を一番よく表していたのかもしれない。
こういった取り組みは、誰かに言われてやるものではない。
頭では、多くの人がそう理解していると思う。
でも、目の前のゴミが一つずつ消えていくこと。
それが分別され、適切に処理されていくこと。
その積み重ねが、確実に環境を変えていくこと。
それらを体感すると、この行為は決して“意味のないもの”ではないと分かる。
もっと言えば、それは「地球環境」という大きな話だけではない。
自分がどう生きるか、どんな価値観で行動するかという、極めて個人的な選択の話でもある。

こんなことを書いているが、大泉工場でゴミ拾いの活動を始めたのは、ここ15年ほどのことだ。
そして当時の僕に、環境問題や子どもたちの未来といった視点があったかというと、正直ほとんどなかった。
ポップコーンというビジネスに向き合う中で、偶然そういった文脈と出会い、少しずつ自分の中に擦り込まれていった。
言い換えれば、最初から高い志があったわけではない。
むしろ、矛盾だらけだった。
社内で「ゴミ拾いをやろう」と宣言しておきながら、自分が参加しない時期もあった。
みんながやっているのに、自分はやらない。
今振り返ると、枕に顔を埋めて消えてしまいたくなるくらい、恥ずかしい。
でも、その未熟さを通ってきたからこそ、今、少しだけ見えるものがある。
渋沢栄一が残した「視・観・察」という言葉がある。
表面的な行動を見る「視る」。
その行動の背景や動機を読み取る「観る」。
そして、その人の本心や人間性に思いを巡らせる「察する」。
当時の僕は、完全に「視る(視られる)」の段階で止まっていた。
ゴミを拾っているという行動にしか、意識を向けていなかった。
だから、その意味も価値も理解できなかった。
でも今は、少しずつ「観る(観られる)」から「察する(察せられる)」ことができるようになってきた気がする。
なぜその人はゴミを拾っているのか。
どんな思いでこの活動に参加しているのか。
そして、何に満足し、何を喜びとしているのか。
これまで多くの「全き人」と出会ってきた。
彼らは特別な人ではない。
自分の選択の意味を理解し、それを日々の行動に落としている人たちだ。
ただ同時に、自分自身に対して問い続けている。
自分は本当にそこまで到達できているのか、と。
心から環境のことを考えてゴミを拾っているのか。
それとも、まだどこかで“やっている自分”を見ているだけなのか。

このコラムを書いている今日は、2026年4月22日。アースデーだ。
1970年、アメリカの上院議員である ゲイロード・ネルソン が、環境問題について考える日として提唱した日でもある。
半世紀以上が経った今でも、僕たちは同じ問いの前に立っている。
環境問題は、誰かが解決してくれるものではない。
でも同時に、一人で解決できるものでもない。
だからこそ、小さな行動が必要になる。
ゴミを拾うこと。
分別すること。
無駄を減らすこと。
それはどれも、劇的に世界を変えるものではない。
でも、確実に自分の在り方を変えていく行為だ。
そして、その積み重ねが、やがて会社の文化になり、社会の空気になっていく。
会社も同じだと思う。
いきなり「全き会社」にはなれない。
ここでいう「全き」とは、完璧であることではない。
自分たちの行動と、その意味がきちんと繋がっている状態のことだ。
でも、一つひとつの選択と行動の積み重ねで、少しずつ近づいていくことはできる。
まだまだ道の途中だ。
それでも、確実に前には進んでいる。
すごく恥ずかしい過去があるからこそ、ちょっとだけ誇れる未来に向かって歩いていけるのだと思う。
そして、その未来は、特別な誰かが創るものではない。
一人ひとりの、小さな行動の積み重ねによって、創られていくものだ。
もし、この考えや行動に共感してくれる人がいたら、ぜひ一度、僕たちの取り組みに触れてみてほしい。






